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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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52 北の政所と淀の方

 関ヶ原の戦いには、それがすべてではありませんが、二人の女性の戦いという側面がありました。
 ひとりは、豊臣秀吉の正妻である北の政所・おね。もうひとりは、秀吉の側室であり淀の方と呼ばれた茶々です。
 そして、このふたりは豊臣政権をささえた二大勢力を象徴する存在でもありました。
 それは、尾張派と近江派です。

 秀吉は尾張の百姓の家に生まれ、織田信長につかえて頭角をあらわしました。そのため初期の秀吉をささえた顔ぶれは尾張出身の者たちが多く、妻のおねもその一人です。彼らには、自分たちこそ「豊臣家」を作り上げたのだという強い誇りがあっただろうと思います。
 ところが秀吉が率いる家臣団の中に、ある時期からもうひとつの派閥が発生します。それは、「近江派」と呼ぶべき勢力でした。

 まだ信長が存命だったころ、羽柴秀吉がはじめて城をまかされた地は、近江の長浜でした。
 足軽から城持ちの武将という身分に短期間で駆け上がった秀吉には、その身分にふさわしい大勢の人材が必要でした。ただ単に多くの人数をそろえればよいだけではありません。城や領地を経営するための、有能な官僚を育成することも急務だったのです。
 そこで秀吉は近江の地で、積極的に家来の登用と抜擢を行いました。武勇だけではなく、才知にとんだ秀才型の人材を好んで集めたのです。そうした中に、後年、豊臣の天下を取り仕切った天才官僚・石田三成などもいました。

 後年、秀吉が天下を手中にして以降のことですが、豊臣家近江派には三成とは違う意味でたいへん重要な人物がくわわります。
 浅井長政の娘、茶々。後の淀の方です。

 浅井長政は北近江の大名。その妻は、織田信長の妹、お市。
 長政は信長と離反し滅亡に追いやられますが、妻のお市は三人の娘とともに信長のもとに帰されています。たった一人の長男のみが、斬首されました。
 これらの処置は、この時代の常識におおむねそっていたようです。滅ぼされた大名の嫡子を助命するのは危険。その昔、平清盛が敵将の子である源頼朝・義経の兄弟に情けをかけたため、後に平家の滅亡を招いてしまったという故事は、武将であれば誰もが知り尽くしています。
 しかし、女性であれば話は別。落城にさいし、妻が敵方の女であれば実家に送り返してやるのが、この時代には当然のことと考えられていたそうです。

 ――このへんは、余談。

 お市は信長の死後、柴田勝家に嫁ぎます。そして、勝家と秀吉の争いにまきこまれ再び落城の憂き目を見るという悲壮な人生をおくりますが、その話も今回の話題とはあまり関係がないので省略します。

 茶々、後年の淀の方の話です。
 茶々は、浅井長政とお市のあいだにできた三姉妹の長女です。彼女は秀吉が天下人となった後、その側室となって寵愛されるようになります。天正19(1591)年に秀吉の嫡子・鶴松を出産し、それを喜んだ秀吉から淀城を賜りました。そのため、淀の方と呼ばれるようになりました。
 この女性の血筋は、たいへんきらびやかです。織田信長の姪というステータスが、まずあります。秀吉にとっては本来なら主筋にあたるわけであり、信長が本能寺で非業の最期をとげていなければ、おいそれと手出しなどできない存在だったはずです。
 そして、父はかつて近江の大名だった浅井長政。
 先に書きましたが秀吉を支える二大勢力は、尾張派と近江派でした。それを考えると、淀の方が近江の大名の血を引いていることの重要さが見えてきます。彼女は、石田三成ら豊臣・近江派閥の希望を一身に集めるスーパー・ヒロインだったのです。

 エピソードをひとつ、紹介します。
 越中の立山に、「黒百合」という珍しい花が咲く高嶺がありました。ある人物がこの花を一輪とりよせて、おねに献上しました。おねはたいへん喜び、茶会を開いて黒百合を人々に披露しました。
 それからしばらくの後、今度は茶々が「花摘み供養」なる催しを開きました。おねもそれに招かれたのですが、催しの場におもむいた彼女の面ざしは蒼白になります。
 様々なありふれた花とともに、無数の黒百合が無造作に活けられていたのです。
 この時期すでに、石田三成ら近江派は豊臣政権の中核として絶大な力をふるいはじめていました。茶々はその大きな権力を動かし、越中に人を派遣して手に入るだけの黒百合を急ぎ集めさせたのです。

 と、まあ、そういう話なのですが。
 このちょっとした挿話、実は作り話らしいですね。
 確かに話ができすぎの感はありますが、江戸時代人の想像力はなかなか鮮やかで見事。「事実」ではないかもしれないが、「真実」ではあるというやつです。

 豊臣秀吉の死後、この国の歴史をゆるがした関ヶ原の争乱。
 その背景に豊臣家尾張派と近江派の確執があり、その亀裂を徳川家康はたくみに利用したのです。それが、天下分け目と呼ばれた大戦さの重要な一側面だったことはまちがいありません。
 そして二つの勢力の頂点に立っていたのは、北の政所・おねと、淀の方・茶々。個性豊かな二人の女性でした。



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