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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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49 南満州鉄道

 明治維新以来、懸命に西洋文明をとりいれ「富国強兵」をめざした近代日本は、しだいに国外へと目をむけるようになります。朝鮮半島や中国東北部への進出がはじまるのです。
 この時代の日本のあり方を、是とするか否とするか。
 それは、私たち日本人にとってたいへん重い課題であり、容易に結論を語ることはできません。
 ただ、やりかたの善悪はべつにして、国外に積極的に進出して新しい国際秩序の構築にかかわろうとした国家は、当時のアジアにあっては日本の他にはありませんでした。たとえ未熟であったとは言え、独自の外交・経済戦略を構想し「世界史」の渦中に身を投じた経験は、その後の日本の歩みにも大きな力をあたえていることを軽視するべきではないでしょう。

 日本が世界に挑戦したあの時代、その最前線となった地は満州の大地でした。
 そして、その真の担い手は、暴走する軍部ではありませんでした。
 当時の満州には、「日本最大の知能集団」と呼ばれる組織が存在したのです。

 それは、満鉄調査部です。

 南満州鉄道。

 その歴史は、1906年にスタートします。日露戦争の勝利によってロシア帝国から譲渡された東清鉄道の南半分をベースにして設立。しかし、これはただの鉄道会社ではありませんでした。炭鉱・製鉄・電力・農業・ホテルなど、きわめて多様な事業を展開していました。そして、それにもまして重要なのは、「鉄道付属地行政」です。
 当時の満鉄は、鉄道施設とともにロシアから譲り受けた付属地の行政権をみとめられ、電力・ガス・上下水道の供給や、病院・学校・港湾などの整備を進め、「公費」という名目の「徴税権」さえあたえられていました。
 それは事実上の国家に近く、満州国の前身とも言えました。

 満鉄調査部は、はじめは中国東北部の経済事情や地誌の調査・研究を目的として設立されています。
 その性格に大きな変化が起こるきっかけは、1917年に勃発したロシア革命です。

 日本にとって満州は、共産主義の進出をはばむ防波堤の役割をおびるようになりました。そこに、宮崎正義という人物が登場します。
 宮崎は、奨学生としてロシアに渡り、革命の起こった1917年にペテルブルグ大学を卒業した経歴をもつロシア・スペシャリストです。この人物を中心に多くの研究者が集まった結果、満鉄調査部はロシア研究のメッカとなります。

 やがて国際情勢の激動は、1929年に起こった世界恐慌によってさらに混迷を深め、加速していきます。ヨーロッパでは反共産主義を旗印とするヒトラーが台頭しました。
 共産主義の拡大と、これを阻止しようとする勢力の衝突は、世界各地に波及します。極東においては、1931年の満州事変を端緒として、翌1932年、日本・関東軍が傀儡国家「満州国」を建国しました。
 満鉄調査部はソ連の情勢に精通した頭脳集団として注目され、しだいに満州における経済政策の立案を要請されるようになります。
 
 ロシア・スペシャリストの宮崎正義は、ソ連の計画経済を研究し、そこからひとつの結論を得たと言います。

 小林英夫『満州と自民党』新潮新書から引用します。

「急速に工業化させるためにはソ連型計画経済は有効だが、それは長い帝政ロシアの圧制の伝統を継いだソ連だからできることで、強力な官僚制度があるとはいえ、自由主義経済を経験した日本でそれを進めることは困難である。日本では、官僚指導の下、国防的重工業などは国家統制の下におき、軽工業や消費財産業は自由競争にすべきである」

 この着想は、当時の満州国における産業政策の責任者だった気鋭の官僚・岸信介によって実行に移されます。その後、岸は日本に帰国し、東条内閣の商工大臣として宮崎のアイデアを本国にも拡大します。

 1945年。日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦国となりました。
 満州の地に「夢の未来国家」を建設しようとした日本人の野望もついえ、国内には多くの主要都市や基幹産業を破壊された無残な姿だけが残りました。
 そんな日本にとって、経済的に立ち直る方法はひとつしかありませんでした。
 それは、わずかな資金・資材・労働力を鉄鋼・石炭などの戦略産業に重点配分し、これを突破口にやがて全体的な生産の拡大をはかっていこうというものでした。

 この方式を推進したのは、第1次吉田内閣のもとで設立された「経済安定本部」(後の経済企画庁)でした。そこで調査、情報収集、分析、企画といった仕事にたずさわっていた人材の中には、満鉄調査部の出身者が少なからず含まれていたと言います。
 この時期の日本は、連合軍の占領政策によって軍国主義時代のリーダーは、戦犯として刑を受けたり、公職追放令によって活躍の場を奪われていました。しかし、追放を免れた中堅官僚たちが経済安定本部に集まり、重要な仕事をになっていました。
 満州で壮大な「国づくり」に挑んだ経験が、荒廃した日本の復興に脈々と流れ込み始めたのです。満州における実験は、その後の日本の高度経済成長をささえる貴重なモデルケースとなったのでした。

 その後、この流れはかつて満州国のエースだった岸信介の公職追放解除をきっかけに、政・官・財界における「満州人脈」の復権というかたちで強化され、それからの日本の進む方向性を決定づけることになりました。
 それは、通産省をはじめとする官僚主導による、「日本株式会社」とも呼ばれる独特の経済成長モデルへと結実していくのです。

 ここに、「55年体制」が幕を開けました。




 このブログは日本の歴史をテーマにしていますが、私がわりあい得意なのは弥生時代から平安時代あたりまで。近・現代史はそれほど詳しくはありません。
 精通しないことがらについて書くのは、われながら少し心許なく思わないでもありません。
 ただ、この時代は現在の私たちに直結しており、避けて通ってばかりはいられないとも感じています。

 戦後日本の国づくりには、かつて満州国に関わった人々の力が大きく影響を及ぼしていると言われています。
 源頼朝をささえた坂東武者の実態が、在地社会に根をはる中堅官僚たちだったように、時代の変革というものは前時代からの連続であって、けして断絶ではないのです。歴史は直近の過去を継承することなしに動きはしません。

 今回の記事は、小林英夫さんの著書、新潮新書の『満州と自民党』(前掲)をもとに記述しました。
 これまで私が知らなかった、「満州人脈」と戦後政治との具体的な関わりの1側面が、この本を読むことでかなり見えてきた気がしています。

 とくに興味深かったのが、満鉄調査部と戦後初期の経済安定本部の接点についてです。

 「昭和の妖怪」と呼ばれた第61~63代内閣総理大臣・岸信介が、満州国の立役者のひとりであったことくらいは私も知っています。
 しかし、戦後初期の日本は連合軍の占領下にあり、満州人脈のリーダーたちは表舞台から一掃されていました。
 この「空白期」をつなぐ人々の存在を、この本を読んではじめて知ることができたのです。

 なお、本稿の内容の多くは、小林英夫さんの前掲書にたよって書いたものですが、要約ではありません。私なりの拙い知識や考察を軸にまとめなおしたものであり、事実誤認や解釈のいたらなさなどがありましたら、私が責を追うものです。




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