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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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45 日本が海外に出兵する時 古墳時代編(一)

《日本列島と戦争(その4)》

1.東アジアの激動
 紀元3世紀。日本列島では、弥生時代から古墳時代に移行した時代です。
 このころから、東アジアの情勢は激動の時代をむかえます。
 その背景として、この地域を長く支配した超大国・漢王朝が内乱のため衰退してしまったことが大きな要因としてあげられます。
 その結果、朝鮮半島と日本列島では、4つの勢力が台頭しました。

 朝鮮半島の高句麗・百済・新羅、日本列島の大和です。

2.中国の情勢

 漢王朝は2世紀ごろから顕著になった政治の腐敗や、黄巾の乱などの大規模な農民反乱によって滅亡にむかい、『三国志』で有名な戦乱の時代に突入しました。それ以後、中国は戦国時代のような状態に陥ってしまいます。この乱世は、魏王朝・晋王朝によって一時的に平定されますが、それも内政の混乱、北方からの異民族の侵入などのために崩壊。数世紀にわたる分裂の時代に入っていきます。

3.高句麗の台頭

 中国の勢力に衰えが見えはじめた2世紀。
 朝鮮半島と日本列島には、多くの小国家群が生まれていました。その中でもっともはやく古代国家としての形をととのえ、強国となったのは朝鮮半島北部の高句麗です。
 高句麗は、4世紀のはじめに朝鮮半島における中国の出先機関である楽浪郡・帯方郡を滅亡させました。半島から中国の支配を排除することに成功し、広大な地域を支配下におさめるようになったのです。
 このように高句麗は、中国王朝の衰えに乗じ大国化をはたしました。ところが東アジアにおける漢民族の後退は、北方から遊牧騎馬民族がつぎつぎに侵入するという事態もひきおこしたのです。そのひとつである遼東の前燕とのあいだで、高句麗は激しい抗争を繰り広げました。
 この戦いでは高句麗は劣勢に立たされたこともあったようです。そして、しだいに活路を朝鮮半島南部にもとめるようになっていくのです。
 もともと高句麗も、騎馬民族系の国家と考えられています。強大な騎馬軍団をもつ高句麗の「南下政策」。それは、朝鮮半島南部の諸国をふるえあがらせました。そして、遠く日本列島をもまきこむ激動の時代が、幕を開けたのです。

4.伽耶諸国と日本

 朝鮮半島南部では、4世紀の始めごろ、西に百済、東に新羅が起こりました。
 そして南端の地域には、伽耶諸国と呼ばれる小国群がありました。
 日本列島とはやくから交渉があったのは、この伽耶地域です。弥生時代以来、倭人にとって、この地域は言わば大陸と半島への窓口でした。先進の文物や知識、貴重な鉄資源などが、この地から日本列島にもたらされたのです。

 近年、朝鮮における発掘調査の進展から、興味深いことがわかってきました。
 日本列島が弥生時代だったころの伽耶の遺跡からは、北九州系の遺物が出土します。ところが、古墳時代に相当する時期の遺跡では、畿内系の遺物が多くなってくるのです。
 このことは、朝鮮半島に進出していた日本勢力の主導権が、北九州の部族国家群から、列島統一を進める近畿地方の大和に移ったことを示しているのでしょう。

 朝鮮半島における高句麗の南下という動きに日本が無関心でいられなかったのは、この伽耶地域との関わりがあったからです。
 高句麗の勢力が半島南部に及ぶことにより、日本は鉄などの輸入ルートを失う恐れがありました。そして、それだけではありません。日本列島が直接、侵略を受ける恐怖にもかられたにちがいありません。
 このころから、大和を中心とする日本の情勢は、急速に軍事的な傾向を強めていくのです。

5.百済と七支刀

 高句麗の南下に対し、もっとも激しく抵抗したのは百済でした。
 危機に際し、百済と新羅は対照的な動きをしめします。新羅は、高句麗に従属することで延命をはかりました。一方、百済は、日本に援助を求めて高句麗と戦う道を選んだのです。

 この時期の百済と日本の関係を示す考古遺物として、七支刀というものがあります。奈良県石上神社につたわる鉄剣で、国宝指定。百済から日本に贈られたことを示す銘文があり、日本書紀にもほぼ同様の記述があります。七支刀(銘文に七支刀、書記に七枝刀と書かれている)というのは、七つに枝分かれした刀という意味ですが、見ればよくわかります。まさにそういう形をした、装飾性の高い刀(剣)です。

七支刀-Wikipedia

 この剣が日本に贈られたのは、369年から372年ごろのことと推定できるのですが、この時期、百済は高句麗と激戦をくりひろげています。371年には平壌城を攻めて、高句麗の故国原王を戦死に追い込んだとされています。
 百済が高句麗との戦いを有利に進めるために日本に接近したことは、明らかでしょう。

 こうして、百済・日本連合軍が成立しました。
 4世紀末から5世紀初頭にかけて、日本は朝鮮半島に出兵し、高句麗・百済との戦闘をくりかえします。

 これを迎え撃ったのが、有名な高句麗の英雄王・広開土王(好太王)でした。





 ・「激論!戦争の是非」

 ・「特集・国家の成り立ち」

 日本社会問題研究所二課・エッセイストの糞


 「日本列島と戦争」シリーズは、サキさんのブログ、『退廃のロジック』との交流から生まれました。
 上記ブログは、コメント欄で議論を呼びかけるというユニークな試みを展開しており、私も参加させていただいています。
 合わせてお読み頂けると、うれしく思います。





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