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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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42 武家の棟梁・源頼信(後編)

1.源頼信と盗賊

 さて、源頼信。

 『今昔物語集』に、こんな話があります。

 頼信の家来に、藤原親孝という者がいました。
 ある時、この親孝の家に盗賊が入りました。親孝は盗賊を捕らえて縛り付けましたが、盗賊は親孝の子供を人質にとって逃亡しようとしました。
 親孝は主人の源頼信に助けを求め、子供が殺されると泣いて訴えました。

 そんな親孝に、頼信はさとしました。

「武士という者は、たとえ子供が殺されても泣いてはならない。武士が物事を怖れないということは、自分の身だけではなく妻子の安全さえも思わないことなのだ」

 そう言い聞かせる一方、頼信は弓矢を持たず、太刀だけをたずさえて親孝の家に向かいました。
 頼信は、盗賊に問いかけました。

「お前は、命を助かりたいか? それとも、子供を殺してお前も死ぬのか?」

 盗賊は、命乞いをしました。そこで、頼信は盗賊に刀を捨てさせました。
 親孝は盗賊を斬ろうとしましたが、頼信はそれを制します。命を助けると武士が約束したからには、それを破ることは許されないからです。
 頼信は盗賊に、馬と弓矢、それに十日分の食糧を与えて逃がしてやったそうです。


2.平忠常、戦わずして頼信に下る

 もうひとつ。同じ今昔物語に、こんな話も収録されています。

 頼信が常陸に赴任していた時のこと。下総に平忠常という豪族がいました。常陸は今の茨城県、下総は千葉県の北部です。
 忠常は千葉県一体に大勢力を誇り、朝廷に従いませんでした。そこで、源頼信は、忠常を攻めることにしました。この時、常陸の豪族の一人である平維基が頼信の軍勢に加わりました。

 平維基と平忠常。
 
 敵味方として二つの平氏があったことに、注意しておいてください。

 さて、頼信は、忠常に降伏を勧告する使者を出します。
 それに対する、忠常の返答はこうです。

「源頼信様には、降伏したいと思います。しかし、平維基は我が先祖の仇です。あの者に膝を屈することはできません」

 平将門以来、関東の平氏は同族争いをくりかえしてきました。

 さて。物語では、平忠常の屋敷は湖水に守られた自然の要害だったと書かれています。
 そのため忠常は、頼信の軍勢はすぐには攻めて来られないだろうと考えていました。
 しかし、頼信は浅瀬の存在を知っていたので、たちどころに大軍をもって忠常を攻め立てました。これに驚いた忠常は、頼信に降伏しました。
 頼信は、忠常がすぐに降伏したため、無用の戦を避けて兵を引きました。


 この二つの物語は説話として伝えられたものです。
 一つめの頼信と盗賊の話は、いかにも「物語」という感じですが、二つめの反乱者・平忠常なる人物が登場する話には史実性がありそうです。

 頼信が常陸介に任じられていたのは、長和元(1012)年ごろのこととされています。
 それから16年後の長元元(1028)年。
 平忠常は、平将門の乱に匹敵する大反乱を、房総半島でひきおこします。


3.平忠常の乱

 長元元(1028)年6月5日、平忠常は突如、安房(千葉県南部)の国府を襲撃し、国司を焼き殺すという凄惨な事件を起こします。

 朝廷は、平直方と中原成通という二人の武人に、忠常追討を命じました。
 ところが、中原成通は母の病気を理由に京都に帰りたいと申し出るなどし、あまり熱心に反乱鎮圧にあたりませんでした。

 どうもこの事件の真相は、平直方と平忠常、二つの平氏のあいだに起こった関東地方における「縄張り争い」のようなのですね。
 中原成通は、そんな他家の争いに巻き込まれるのをいやがって、母の病気を口実にしたフシがあります。

 平直方と忠常の戦いは何年もつづき、決着がつきませんでした。
 そのため、房総半島は戦乱によっていちじるしく荒廃してしまいました。

 事態を憂慮した朝廷は、平直方を追討使から解任し、かわって源頼信を任命します。

 頼信が大乱の鎮圧の収拾にのりだすと、頑強に抵抗していた忠常はあっけなく降伏します。
 
 源頼信は2度、平忠常をほとんど戦うことなく降伏させたことになります。

 そこに、どのような駆け引きがあったのでしょうか。

 ヒントがあります。

 それは、頼信の戦後処理です。

 源頼信は、降伏した平忠常を京都に連行します。しかし、忠常は連行される途中、美濃の国で「病死」しました。
 ところで忠常には二人の息子がいたのですが、彼らは処罰をまぬがれているのです。

 どういう取引があったのか、だいたい想像がつきますね。

 乱の首謀者・忠常の死をもって、その息子たちは命を助けられ、子孫が関東地方で勢力を維持することをゆるされたのでしょう。
 それを条件に、忠常は頼信と戦うことなく降伏したのだと思います。

 一方、もうひとつの平氏・平直方の勢力は、関東地方から撤退を余儀なくされます。
 源頼信は、この平直方にも配慮を見せています。

 ほどなく頼信の嫡男・源頼義と、直方の娘が縁組しているのです。

 源頼信は、戦争を回避しながら、八方を丸く治めてしまったわけです。


4.ネゴシエーター(交渉人)

 ここで、冒頭に紹介した物語を思い出してください。

 家来の息子を人質にとった盗賊に対し、頼信は誰一人傷つけることなく事態をおさめてしまいましたね。

 源頼信こそ、日本の歴史上、屈指のネゴシエーター(交渉人)と言えるでしょう。

 私はエントリの39で、平安時代は政治が堕落しモラルが荒廃した「乱世」だったと書きました。
 そういう混迷の時代に、武士のヒーローが二人、出現しています。

 その一人は、平将門。
 関東の地に大反乱を起こし、武士の意地を天下に示した「英雄児」です。

 もう一人は、源頼信。
 彼は、強力な武力をもちながら、けしてその力にうったえることなく混迷の時代に新たな秩序をもたらした「調停者」でした。

 ここに、「武家の棟梁」が誕生したのです。



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