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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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40 武家の棟梁・源頼信(前編)

1.なぜ「関東」は源氏を選んだのか?

 治承4(1180)年10月6日。

 この日、日本列島の歴史の流れを大きく変える出来事が、関東で起こりました。
 源頼朝が5万騎ともいわれる大軍を率いて、鎌倉の地に入ったのです。
 伊豆で挙兵した頼朝が石橋山の合戦で平家軍に大敗したのは、この日からわずか40日余り前のこと。
 命さえも風前の灯と思われた頼朝の怒涛のような巻き返しに、天下は震撼したに違いありません。

 源頼朝という一人の男に、関東の武士たちの「夢」が結集したのです。

 清和源氏の総帥。
 その地位がもたらすカリスマ性が、頼朝の力の源泉でした。

 それでは源氏は、なぜそれほどの影響力を関東の武士たちに及ぼすことができたのでしょうか?

 その理由の一端を、エントリ38『「八幡太郎」伝説 -源義家-』で書きました。しかし、源氏と関東のかかわりは、そう簡単には語りつくせません。
 今回とりあげようと思うのは、義家よりももう少しさかのぼる時代です。

 源義家の祖父にあたる人物、源頼信。

 この頼信こそ、源氏が関東地方に大きな力をふるう礎をきずいた人物でした。


2.そもそも「源氏」とは何か?

 「源氏」とは、もともと天皇から分かれた一族です。

 天皇と皇族には「姓」がありませんね。天皇家は「姓」を与える氏族だからです。

 ところが、皇族として生まれた者が何かの理由で「臣下」の地位にくだるケースがあります。臣下ですから、彼らは「姓」を与えられることになります。この場合に与えられる姓はいくつかあるのですが、有名なのが「源氏」と「平氏」というわけです。

 頼信、義家、頼朝は、清和源氏と呼ばれます。これは、清和天皇から分かれたので、そう呼ばれました。
 他に源氏には多くの流れがあり、村上源氏とか嵯峨源氏などが有名。それぞれ、村上天皇、嵯峨天皇の流れです。
 これらの中で格が高いのは実は村上源氏で、この一族の中には京都の朝廷で藤原摂関家に匹敵する高位にのぼった人物もいます。
 こういう「公家(貴族)源氏」にくらべ、頼朝の属した清和源氏は「武家源氏」と呼ばれ、朝廷の高官たちから見たら身分が低いのです。
 しかし、当時は雲の上の人々だった「公家源氏」たちは歴史にほとんど名を残すことなく忘れられ、有名な「公家源氏」を一人あげるとしたら、架空の人物である「光源氏」くらいのものでしょう。
 彼らよりも身分の低かった清和源氏の方が、日本の歴史にはかりしれない足跡を残す一族になりました。


3.もう一つのカリスマ武士・平氏

 源氏のライバルだった、平氏の場合はどうでしょう。
 桓武天皇の子孫である「桓武平氏」が有名ですね。平氏の場合も桓武平氏のほかにいくつか流れがあるのですが存在感がうすく、こちらは桓武系が圧倒的な存在です。

 桓武平氏はちょっと特殊な存在で、朝廷が関東地方に送り込んだ、東国平定の尖兵のようなところがあります。
 「平」という姓の由来は、平安京から来ているとか、中国の故事にもとづくとか言われていますが、私は東日本を「平らげる」という意味が込められていたのではないかと思ったりもします。(何かの本にもそんな説が書かれていたような気がしますが、何で読んだのか忘れました・・・・・)

 それはさておき桓武平氏も「武家」であり、身分はそう高くはありません。彼らは、早くから関東地方に進出して地方勢力として成長しました。
 都では身分が低くても、地方に下れば何しろ天皇の子孫ですから、たいへんなものです。
 こういう人々を、「軍事貴族」と呼ぶこともあります。

 エントリ39『平安時代は乱世だった』では、当時の東国がアナーキズムに支配された荒涼とした世界だったことを説明しましたが、そうした乱れた地方社会を治めるために派遣された期待のエースこそ、天皇の血を引く「軍事貴族」平氏だったわけです。彼らは「武威」と「王威」を併せ持つ存在でした。
 有名な平将門も、そうした初期の平氏の一人だったのです。


4.関東では最初は平氏の方が優勢だった

 後の源平合戦時代のイメージから、西国の平氏、東国の源氏と思われがちですが、最初に関東地方に勢力を誇ったのは、実は平氏の方なのです。

 前にも書きましたが、平将門は都や国司の搾取をうらむ東国武士たちの英雄となり、彼らを率いて大反乱を起こしました。
 将門の反乱軍が目指したのは、「関東独立王国」の建設という壮大な夢でした。

 しかし将門は追討され、夢はついえます。

 将門を滅ぼした立役者は、彼の従兄弟にあたる同じ平氏の平貞盛と、北関東の大豪族・藤原秀郷でした。
 藤原秀郷というのは、大ムカデを退治した伝説をもつ俵籐太と同一人物でこれも実に面白い武将なのですが、今回のテーマには関係がないので省きます。

 問題は将門と貞盛。
 どちらも平氏です。「従兄弟対決」となった背景には、いろいろイキサツがあるのですが、話がややこしくなるのでそこも省略します。
 強調したいのは、この時から平氏の勢力が2派に分かれて対立するようになったことです。


5.二つの平氏

 反乱の失敗で将門は滅びます。
 将門の地盤は房総半島でしたが、この地方は彼の叔父の一人である平良文(村岡五郎ともいう)という人物が継承しました。
 この良文の流れは、関東に土着して地方豪族として生きていく道を選びました。その子孫は後に、三浦氏、千葉市、上総氏、梶原氏などの有力武士団に成長します。
 お気づきでしょうか? 彼らはすべて源頼朝の反乱軍に参加して鎌倉幕府をつくった錚々たるメンバーなのです。
 「坂東八平氏」という言葉を聞いたことがありますか?
 源氏政権をささえた有力武士団の多くが、実は平氏でした。

 一方、将門を滅ぼした貞盛の流れは、都と西国に活躍の基盤を求めるようになっていきます。
 こちらの方の子孫は、たいへん有名な一族になります。平安時代末期に中央政界を牛耳った「奢る平家」、あの平清盛が率いた平家なのです。

 鎌倉時代に先立つ武士の歴史。その第一段階は、源平の争いというよりも、むしろ二つの平氏の確執を軸にして展開していたところがあるのです。


 時代は10世紀。
 このころ、嵯峨源氏・清和源氏という源氏系軍事貴族も、関東進出を進めていました。しかし、彼らはまだ脇役です。

 形成が大きく変わるのは、11世紀を待たなければなりませんでした。

 元祖「武家の棟梁」ともいうべき傑出した人物、源頼信がついに登場します。



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