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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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38 「八幡太郎」伝説 -源義家-

《征夷大将軍・前史》

 「八幡太郎」源義家について、書いてみたいと思います。
 この人物は、前九年の役・後三年の役で名をはせた平安時代後期の武将で、中世にあっては伝説的な英雄でした。

1.源頼義・義家親子と、東北戦争

 11世紀の後半、東北地方に勢力を誇った蝦夷系の大豪族がいました。
 
 安倍一族です。
 
 その強大さをおそれた朝廷は、関東で力をたくわえていた源頼義(義家の父)に征討を命じました。
 それが「前九年の役」です。
 鎮守府将軍・陸奥守に任じられた頼義は、息子の義家とともに、安倍一族と数年にわたる死闘をくりひろげました。
 この戦において若武者義家の勇敢な戦いぶりは評判となり、味方からは称えられ、敵からは鬼神のように恐れられたと言われます。

 つづく「後三年の役」は、義家が主役となります。
 安倍氏滅亡後、東北はやはり蝦夷系の雄族、出羽の清原氏が勢力をのばしました。
 この清原氏に主導権争いの内紛がおこり、それが「第2次東北戦争」の発端となりました。
 そのころ陸奥守として下向した義家は調停を試みますが、しだいに自らも泥沼のような戦いにまきこまれていきました。
 武家の棟梁として人望を集めていた八幡太郎・義家のもとに、関東の武士たちの多くが参陣したと伝えられています。しかし、酷寒の地での戦いは長びき、義家の軍勢は苦戦をしいられます。
 
 何とか勝利をもぎとった後、義家はこの戦いを国家の正式な追討戦として朝廷に認めさせようとしました。しかし、朝廷はこれをあくまで義家の私戦であるとして、はねつけたのです。
 そこで義家は、戦に加わった武士たちに私財から恩賞をあたえました。
 
2.「八幡太郎」伝説の誕生

 「八幡太郎」義家をめぐっては、多くの事跡が語り継がれています。しかし、それらは後世の伝説に彩られているところも少なくないように思われ、史実性は判然としません。
 しかし、重要なのは事実ではなく、「義家」というたぐいまれな英雄像が後の世にどう伝えられ、どのような影響をおよぼしたかです。
 
 「荒鷲」にも「鬼神」にもたとえられた義家の武勇と、私財を投じて家来の労に報いた「美談」が、東国の武士たちに長く信じられたのは確かでしょう。
 こうして、「源氏の嫡流」という血統は、武士たちのあいだに信仰にも似た強いカリスマ性をおびて意識されるようになったのです。

3.平氏の血もひく「武士の中の武士」

 ところで、源氏の伝説的な英雄として名高い義家ですが、実は平氏の女性を母にもつことは、あまり知られていないかもしれません。

 11世紀の前半、鎌倉に平直方という武将が館をかまえていました。
 そのころ、房総半島で「平忠常の乱」が勃発します。
 朝廷の搾取に不満をいだいた平家の武将が、10世紀の平将門につづき11世紀にもクーデターを起こしたのです。
 同じ平氏の流れをくむ武将ですが、平直方はどちらかというと官僚的、忠常の方は地元に土着した豪族的な性格が強かったようです。
 平直方は、忠常の叛乱を鎮圧するよう朝廷から命じられるのですが、果たすことができませんでした。
 そこで朝廷は、源頼信に忠常追討を命じました。これは、義家の祖父にあたる人物です。
 忠常は頼信の軍門に下り、叛乱は終息します。
 この時、頼信の子、若き日の源頼義の器量に感心した平直方が、娘の婿にと望んだのです。
 源頼義は平直方の娘をめとり、鎌倉の館をも相続しました。そして生まれた嫡男が、源義家なのです。

4.鎌倉時代前史としての「八幡太郎」伝説

 さて。
 ここまでの記述の中に、後の源頼朝による「鎌倉幕府草創」を準備する条件がいくつも含まれていることに、お気づきでしょうか?

 第一に、鎌倉の地が源氏の本拠地となった由来。

 第二には、清和源氏の嫡流が武門の棟梁と目されることになった根拠です。
 八幡太郎義家は、源氏の伝説的な英雄。多くの武勇伝と美談によって「理想の武士」として語られたことも重要ですが、その出自も見逃すことはできません。
 彼は、源氏と平氏の血が合一して生まれた、まさに「武士の中の武士」だったのです。

 第三に「征夷」。これは東北の蝦夷を征伐するという意味です。
 武家政権のリーダーは、なぜ「征夷大将軍」なのか。その必然性の一端を物語っています。

 源氏にとって、東北攻略は歴史的なアイデンティティーだったのです。
 このテーマは、源頼朝の奥州平泉平定によって成し遂げられます。頼朝の征夷大将軍就任は、その3年後のことでした。


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