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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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22 古代東国の王者と「稲荷山鉄剣」

「稲荷山鉄剣」というのをご存知ですか?

 これが見つかったのは、埼玉県行田市の稲荷山古墳。
 発掘調査は1968年のことですが、調査後の資料整理が追いつかず、この鉄剣は10年間も倉庫の中で眠っていました(遺跡の発掘では普通のこと)。

 そして10年後の1978年秋。
 突然、「世紀の大発見」として脚光をあびました。
 当時はマスコミでもけっこう取り上げられていたので、覚えている方もいらっしゃると思います。

 なぜ「世紀の大発見」なのかというと、この剣には金象嵌で115文字もの銘文がほどこされていたのです。
 その「115文字」の内容が、5世紀前後の日本史を研究する上でさけて通れないほど重要なものだったのですね。

 以下は、この銘文の書き下し文の1例です(埼玉県教育委員会公表の資料による)。

辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。
其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。
其の児、名はタカヒシワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
其の児、名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治す。此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

 この剣が作成されたのは「辛亥の年」。
 ご先祖の意富比垝(オホヒコ)から乎獲居臣(ヲワケの臣)までの8人の系譜が記述されています。
 この一族は代々杖刀人の首(長官)として朝廷に仕えてきた、と記述されています。

 そして、とりわけ注目された「獲加多支鹵大王」という人物が登場します。
 この大王の名が書かれていたことが大きな論争を呼んだのですが、この古墳の被葬者は大王が斯鬼宮(シキの宮)で在位していたとき、その統治を補佐したとあります。
 この剣はその記念に作らせたものだ、と剣の由来を語っているわけです。

 さて、獲加多支鹵大王。
 実はこの名が記された刀剣が、もう1本見つかっています。
 熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳で発見された大刀です。
 こちらの銘文は、銀象嵌。記述の冒頭に、「治天下獲□□□鹵大王」とあります。剥落があって完全に読めなかったのですが、稲荷山古墳の鉄剣から「獲加多支鹵大王」という文字が確認されたことから、同一人物だろうというのがほぼ定説になりました。

 5世紀ごろ、獲加多支鹵という大王の勢力が、埼玉から熊本という広大な範囲におよんでいたことが明らかとなったわけです。
 まさに治天下(天下を治める)大王です。

 で、獲加多支鹵。
 これをどう読むかは難しいのですが、ワカタケル大王とする説が有力です(必ずしも定説ではない)。
 
 もしワカタケルならば、大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)=雄略天皇ということになります。
 雄略天皇は日本書紀の記述でもかなり異彩を放つ、英雄的とも暴君的ともいえるキャラクターです。
 また雄略は、中国の史書に登場する倭の五王のひとり武と同一人物だと見られています(これも必ずしも定説ではない)。この倭王・武にも征服王的なイメージがあります。

 これらをつなげて考えると、熊本と埼玉の豪族を従えて天下に号令したワカタケル大王(治天下獲□□□鹵大王)が、国内平定後、中国に使者を送ってその偉業を誇ったという物語がなりたちます。
 話としては、たいへん面白くなりますね。

 獲加多支鹵大王が雄略かどうかはともかくとして、この稲荷山鉄剣の銘文がなぜ重要かというと、この時代(5世紀=古墳時代中期)の日本には、文字資料というものが皆無に近いからです。

 日本最古の史書である古事記・日本書紀は、7世紀~8世紀初頭に編纂されました。
 これに先行して、有力豪族などの伝承をまとめた書物がいくつか存在したらしいのですが、それらは現存していないし、書かれた時期も5世紀までさかのぼるとは考えにくいのです。
 つまり、5世紀の日本には書物は存在していません。
 日本書紀には雄略天皇についての記述も見られますが、それは口伝えに語りつがれた伝承を200年も後に記述したもの、ということになります。

 それを考えると、稲荷山や江田船山古墳の銘文は、きわめて貴重な「同時代に書かれた文章」ということになるのです。

 そこで、この二つの銘文から拾える重要なデータのいくつかを見ていきたいと思います。

(1)5世紀の日本に、九州から関東地方にかけて少なからぬ影響力をもつ「大王」が存在した。
(2)「天下」という概念が、すでにあった。
(3)「杖刀人」という、一種の官職と思われる地位があった。なお、江田船山大刀の銘文には「典曹人」という職名も見えます。

(4)として、意富比垝(オホヒコ)という人名に注目したいと思います。
 この人物については、少しくわしく書きます。

 日本書紀によると、崇神天皇の10年に、北陸、東海、西道、丹波に派遣された4人の将軍がいます。これを「四道将軍」といいます。
 このうち北陸に派遣されたのが、大彦命(おおびこのみこと)です。
 
 もし意富比垝と大彦命が同一人物なら、日本書紀に書かれた「四道将軍」の記事に、ある程度の史実性があった可能性がでてくることになります。

 もっとも4・5世紀(古墳時代前~中期)の日本書紀の記述は、先にもふれたように伝承にもとづいて書かれたものと考えられます。
 だから「四道将軍」の派遣が事実だとしても、崇神天皇の治世かどうかはわかりません。
 ただ、稲荷山鉄剣に書かれた「辛亥の年」というのが、西暦471年か531年のどちらかだということはほぼ確実と考えられているので、そこから8代さかのぼったころというのが実年代を考える手がかりになります。

 まとめると、稲荷山古墳に埋葬された「ヲワケの臣」は、古墳時代前期の4世紀か、おそくとも5世紀のはじめころに北陸方面に派遣された「軍事氏族」の末裔ということになります。
彼は、5世紀後半の北関東に大きな勢力をつくりあげたのでしょう。

 ところで、稲荷山古墳は実は埼玉古墳群と呼ばれる多数の古墳のひとつです。そして、規模や副葬品などから「首長墓」(地域の王の墓)だと考えられているのですが、埼玉古墳群では、稲荷山古墳より古い時期に首長墓級の墓は築かれていなかったとされているのです。
 つまり、オホヒコが四道将軍の大彦命だったかどうかは別として、それから8代目のヲワケの臣以前には、この1族は少なくとも埼玉(北武蔵)ではそれほど隔絶した勢力ではなかったことになります。
 ヲワケの臣の代になって、突如として彼は武蔵の国(埼玉・東京)の王者に飛躍したのです。

 ここから「武蔵国造の乱」と呼ばれるさらに大胆な仮説がとなえられているのですが、長くなるのでそれは別の記事で書こうと思います。

 稲荷山鉄剣は、考古学の成果が歴史研究に大きく貢献できることを証明しました。

 最後に、余談をひとつ。
 この大彦命をめぐって、古事記におもしろい記述が見られます。
 大彦命の息子、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)が四道将軍のひとりとして東海道に派遣されています。ふたりが出会ったのは、会津でした。
 このエピソードが、「会津」という地名の由来になったといわれているのです。


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