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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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21 蘇我氏 - 列島の古代国家をつくった一族 -(その1)

 「蘇我氏」について、考えてみたいと思います。

 日本の歴史の流れの中に、時代を牽引する役割をになう一族がいくつも現れています。
 蘇我氏もそのひとつですが、活躍した時代が古いため、かなりの歴史好きでなければイメージがつかみにくいのではないでしょうか。

 蘇我氏が勢力をふるった期間は、おおよそ6世紀から7世紀にかけてです。
 とくに7世紀前半を「飛鳥時代」といいますが、有名な蘇我馬子・蝦夷・入鹿の3代が飛鳥の地から国政を動かした絶頂期にあたり、「蘇我時代」と呼ぶこともできると思います。 

 この時代を象徴する人物としては、聖徳太子がいます。
 しかし、聖徳太子の「聖人」のようなイメージは、まったくの虚構であることが現在ではわかっています。
 聖徳太子という呼び名も後世のもので、本来は厩戸王といいました。用明天皇の皇子ですが、この父親は蘇我稲目の孫、そして母親の方もやはり稲目の孫にあたるという、蘇我氏の血をかなり強くうけた人物です。

 また、この時代の重要なキーワードに、「仏教の受容」があります。

 仏教を受け入れるかどうかをめぐって、推進派の蘇我氏と反対派の物部氏のあいだに抗争があったことは、日本書紀に記述されており、わりと知られています。

 仏教の受容は単に宗教や文化だけの問題ではなく、先進的な技術、学問、政治制度などの導入ということに結びついていました。
 いわば、当時の東アジアにおける「グローバルスタンダード」だったのです。
 日本が仏教化(グローバル化)を達成していることを示すことは、超大国・中国との対等外交をめざす道でもありました。

 このような政策を推し進めたのが、蘇我氏だったと考えられるのです。

 ところで、この開明的な一族は、6世紀に急速に台頭したことがわかっていますが、それ以前の出自がはっきりしないのです。
 一応、系図の伝承はあり、建内宿禰(たけのうちのすくね)の子、蘇我石川宿禰を始祖とし、満智-韓子-高麗-稲目-馬子-蝦夷-入鹿と継承されたことになっています。このうち稲目から後はほぼ史実と見ていいのですが、高麗までは事跡がはっきりせず実在性に乏しいとも言われています。

 ただ、これらの蘇我氏の先祖たちには、興味深い特徴があります。

 朝鮮半島との関わりを、つよく暗示しているのです。

 韓子と高麗は、名前からしてそのまんまですね。
 そして、面白いのが満智。
 朝鮮半島側の古い史書、『三国史記』百済本紀に木(あるいは木)満致という人物が登場するのですが、これが蘇我満智と同一人物とする説があるのです。

 ここから、「蘇我氏渡来人説」が生まれました。

 蘇我氏の事績に見られる「開明的」な性格。
 また、東漢(倭漢・やまとのあや)氏など渡来系であることが確実な氏族を傘下におさめていた事実。

 これらの点を根拠として、蘇我氏自身が渡来人だったのではないか、という考えにいきついたわけです。
 門脇禎二氏が提唱した説で、有力な仮説として評価されていますが、反論もあることはあります。

(1)蘇我満智と木満致は、史書を素直に読むかぎりでは活躍した年代にずれがあり、名前が似ているだけで同一人物と即断するのはやや強引。

(2)東漢氏や秦氏など当時日本で活躍していた多くの渡来系氏族が自らの素性を偽ってはいないのに、蘇我氏だけが渡来人であることを隠す理由が不明。

 これらが、代表的な反論です。

 このように蘇我氏渡来人説は、好奇心を刺激する魅力的な仮説であるとともに疑問点も多く、簡単に結論をだすことはできません。
 ただ、この氏族が多くの渡来系氏族を傘下におき、それを力の源泉にしていたことは明らかです。


 さて、それでは実在のはっきりしている稲目以降に話を移しましょう。

 ここまで述べたように蘇我石川宿禰~高麗までの系図の真偽はよくわからないのですが、次の稲目の代になって蘇我氏は突然歴史の舞台に登場します。

 それは6世紀前半、継体天皇の時代です。

 継体天皇という人物にも謎が多く、その即位はとうてい平穏なものだったとは思えないふしがあります。
 武力により新王朝を興した天皇と見る説さえあるのです。

 日本における古代国家の成立は、この継体朝につづく、6世紀中葉の欽明朝以降と言われています。
 日本書紀によると、継体天皇と欽明天皇のあいだに安閑・宣化というふたりの天皇が即位しているのですが、その治世は短く歴史的には存在感がうすいように思います。
 また、継体天皇の死後に後継者争いの混乱があった可能性もありそうなのですが(二朝並立説)、話がややこしくなるので、ここでは省略します。

 歴史の大きな流れとしては、継体朝から欽明朝にバトンはわたされたと見るのがよいように思えます。
 このころから大和政権は屯倉と呼ばれる直轄領を各地に展開するようになり、素朴ながら官僚制度や徴税制度が整えられ始めました。
 それが6世紀という時代です。

 日本の古代国家成立は、6世紀にはじまると考えられます。

 ただし、それよりさかのぼる5世紀の日本にも、「大王」を名のる勢力は存在しました。
 彼らは中国の史書に「倭の五王」として登場し、巨大な前方後円墳を残しました。

 前方後円墳という墓制は、畿内を中心に同一規格で設計された墳墓が広く各地に造られています。
 このことから、5世紀には日本列島のかなりの範囲に大きな影響力をもった「畿内政権」があったことは間違いありません。
 しかし、それは3世紀の「邪馬台国時代」を大きな意味で継承する、「部族連合」の盟主のような存在だった可能性が高いのです。

 この「部族連合」は時に朝鮮半島に武力介入を試みるほどの勢力を誇りましたが、何らかの理由で5世紀の終わりごろに衰退したと見られます。
 そして新たな勢力が台頭して「古代国家」への道を歩み始めます。
 この新勢力は、近江・越前・尾張など畿内より東方の地域に勢力をはり、多くの渡来系氏族とも連携していました。
 
 この新勢力を率いたのが、継体天皇と蘇我稲目だったと思われます。

 ある意味で日本の「先史時代」は5世紀で終わり、6世紀からが「歴史時代」と捉えることができるかもしれません。
 だとすれば、蘇我稲目は歴史の始まりとともに登場したことになります。
 蘇我氏における「稲目以前」が不明なのは、それが歴史以前にかかってしまっているからと言うこともできるかもしれません。


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コメント

門脇氏は歴史家というよりも、思想家という感じがしますね。彼が、邪馬台国九州説に、急遽、転向したのも、最近の箸墓古墳の研究成果で、邪馬台国=大和国が濃厚になってきて、少なくとも2世紀後半頃には、大和を中心に西日本全域が強大な連合体を組んでいたことが濃厚になってきて、それを否定するために転向したみたいですからw しかも、箸墓=卑弥呼の墓なら、門脇氏が恐れていた、日本の記紀と中国史書の一致によって、戦後に否定された記紀が復活してしまうからw

 どうなんでしょうね。
 ななし さんの「歴史家」と「思想家」の定義をうかがっておいた方がいいかもしれません。

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