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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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19 田沼意次と、近世通貨の歴史

 江戸時代中期、幕府は経済の分野での多くの”実験”を試みました。
 有名な田沼意次が政権の中枢をになったころのことです。
 
 歴史の流れの中で、その後の”日本”に大きな影響をもたらした重要な時代がいくつかあります。
 田沼時代もそのひとつと言えるでしょう。



(1)江戸時代の税制について

 江戸時代の経済は、”米本位制”と言われることがあります。
 
 幕府・諸藩の財政の中心は、農民が年貢としておさめる米でした。
 年貢米は、税制としてシンプルなものでした。
 検地によって農村や農家の耕地面積をしらべておけば課税額が決められるという、わかりやすいしくみだったのです。
 
 徳川幕府は本当は商工業者からも税をとりたかったのですが、商人の儲けをどう計算すればいいのかよくわからなかったので、徴税システムをひねりだすのにとても苦労しました。
 
 考え出されたアイデアのひとつは、”株仲間”の公認料という名目でした。
 
 株仲間とは、商人たちがつくる独占的な同業組合のことです。
 似たようなものとして室町時代には”座”というのがありましたが、これは経済の発展を阻害するとして廃止にむかう動きが、戦国時代末期から起こっていました。
 織田信長の楽市楽座が有名ですね。
 
 ただ江戸時代になると、一応この方針は継承されたものの、商工業のコントロールに有効という観点から、同業組合の結成をしだいに容認するようになったのです。
 
 そして田沼政権時代に、冥加金という手法が確立しました。
 要するに株仲間を公認する見返りに、許認可料を払わせることにしたのですね。
 これが商工業への課税のようなものになったわけですが、十分ではありませんでした。


(2)幕府を崩壊させた複雑な通貨事情について

 つぎに、きわめてユニークな動きがあった通貨政策について、見ていきたいと思います。

 江戸時代には、金貨、銀貨、銭貨の三種類の通貨がありました。
 そして、それぞれがちがう単位をもっていたためレートがややこしくなるという大きな問題点をはらんでいたのですが、この矛盾は幕末まで持ちこされてしまい、体制を崩壊させる原因のひとつになりました。
 
 ここには、(1)でふれた”米本位制”の問題もからんできます。
 
 当時の基本的な税は、米でした。
 
 米の用途の第一はもちろん食べることですが、余った分をおカネに換えて収入にしていたわけです。
 戦国時代から江戸時代のはじめにかけて、鉱山開発の技術が進歩したため、金属貨幣(要するに金貨や銀貨ね)はわりあい豊富にありました。
 でも、それだと通貨供給量が金・銀の生産量とイコールになってしまうので、いつかは頭打ちになります。実際に3代将軍家光のころから元禄時代にかけて、そういうことが起こったのです。
 
 おカネが足りなくなってしまいました。
 
 農業技術も進歩したので米の方はかなり増産しているのですが、おカネが足りないので売りにくいということになったのです。現象としては、米価の下落ということがおこりました。
 
 貨幣が足りないのが問題だったのです。このことに最初に気づいたのが、元禄時代の天才経済官僚・荻原重秀でした。
 
 この興味深い人物については、本ブログの5でも取り上げました。
 
   5 江戸の経済危機に挑んだ男

 荻原重秀は、小判の改鋳にとりくみました。小判の質をおとして、量をふやしたのです。
 
「貨幣は政府の信用で通用させるものなのだから、実際の金や銀でなくてもかまわない。瓦だっていいのだ」

 荻原は、そんな意味のことを言ったと伝えられています。
 
 本当のところ荻原の”元禄改鋳”が、通貨供給量の問題まで見抜いてのことなのか、単に幕府の財政を立て直すための奇策として発想されたに過ぎないのかは、よくわかりません。
 
 ただ「通貨の本質は、政府の信用。材料は黄金ではなく、瓦でもいい」というのは、慧眼ではありました。現在発行されている”紙幣”というのは、まさにそうしたものです。
 
 ところが荻原の改鋳は、当時から評判がわるかったようです。
 ”金貨の質をおとして儲ける”ということが、ひどく不道徳なことのように感じられたのでしょう。
 
 そこで、荻原を追い落とした政敵の新井白石は、小判の品位をもとにもどしました。
 すると今度はデフレが発生したため、幕府は再び貨幣の質をおとす改鋳を行いました。
 そんな調子で無定見に行ったり来たりしたため、しばらく日本の経済はかなり混乱したようです。
 
 こうした失敗から学んで、もっと巧妙なことをやったのが、田沼意次の政権です。
 
 田沼政権は、金銀レートの問題に着目しました。
 
 ちょっと煩雑な話になりますが、ここで当時の貨幣単位について説明しなければなりません。
 
 金貨(小判)は、1両=4分=16朱でした。
 
 また、金貨と銀貨の公定レートは、金貨1両=丁銀60匁(匁というのは重さの単位でもあり、1匁は1/1000貫、3.75g)。
 
 そして、丁銀の銀の比率は、46パーセント。
 
 そこで、60匁×46パーセント=27.6匁ですから、純銀27.6匁が1両に相当することになります。
 
 ところで田沼政権は、南鐐二朱銀というのを発行しました。
 
 これは、銀貨に”8枚で小判1両と交換できるよ”と明記したものでした。1両の8分の1は2朱ですから、二朱銀というわけですね。
 
 銀貨については、それまでは匁という重さで勘定していました。
 
 それを大転換して、「重さはどうでもいいから、とにかくこれは8枚で小判1枚!」ということにしたのです。
 金貨を本位貨幣と位置づけての”兌換紙幣”みたいなものにしちゃったわけです。
 
 本質的には、荻原のいう瓦に、”二朱”と書いたのと同じです。
 また、現代の1万円札が、紙なのに”1万円”と書いてあるのとも同じです。
 
 ですが、瓦や紙よりは実際の価値がありそうな印象をあたえる銀を使ったところが、田沼政権の巧妙な心理作戦です。
 
 そして、二朱銀には絶妙なトリックがもうひとつありました。
 
 二朱銀は従来の丁銀より質を上げているのですが、それ以上に名目価値を上げることによって、相対的に質を落としたのです。
 要するに、それまでの貨幣改悪は重さに対して金や銀の量を少なくしていたのですが、二朱銀の場合は”名目価値”に対して銀の量を少なくしたわけです。
 
 具体的には、次のようなことです。
 
 二朱銀1枚は、2.7匁(10.19g)でした。
 8枚なら、2.7匁×8=21.6匁になります。
 
 二朱銀8枚(21.6匁)=2朱×8=16朱=1両
 
 すなわち、金貨1両=二朱銀21.6匁、
 という計算が成り立ちますね。
 
 公定レートは先に書いたように、金貨1両=銀60匁です。
 
 だから、ずいぶん差があるように見えますが、さにあらず。
 
 銀貨に含まれる”純銀”の量で計算しなおすと、かなり様子がかわります。
 
 従来の丁銀は、純銀の比率が46パーセントでした。
 
 二朱銀は、なんとこの比率を98パーセントに上げたのです。ほとんど、純銀で作ったようなおカネです。
 
 そこで、問題です。

① レートが低く質も悪い銀貨と、レートが高く質もよい銀貨では、どちらが価値があるでしょうか?

② 1両に相当する丁銀と二朱銀では、どちらが純銀の量が多いでしょうか?

①については「レートと質の比率が問題なのでなんとも言えない」というのが正解ですが、感じとしては後者の方が価値があるように聞こえるでしょう?
 荻原重秀が行った小判の質をおとす改鋳は、評判がわるかったと書きました。その心理のうらがえしとも言えます。
 
②については、計算してみましょう。

 二朱銀8枚は21.6匁。

 21.6匁×98パーセント=21.168、約21.2匁になります。

 したがって、1両に相当する銀の実質的な量は、二朱銀なら21.2匁です。

 丁銀については、すでに計算しましたが、念のためもう一度書いておきます。

 丁銀60匁(公定レートで1両)×46パーセント=27.6匁。

 ですから、1両に相当する銀の実質的な量は、丁銀なら27.6匁です。

 21.2匁と27.6匁。

 ”純度98パーセントの良質の銀貨”という言葉にごまかされますが、実は二朱銀の方が23パーセントほど銀の量が少ないのです。
 
 おわかりでしょうか? 丁銀を鋳つぶして二朱銀をつくると、1両あたり23パーセントずつ銀貨が余分につくれるわけです!

 貨幣の質を落として量をふやす”改悪的改鋳”と実は同じことをやっていると書いたのは、こういうことです。
 にもかかわらず二重三重のトリックによって、銀貨の質を上げているような印象をあたえたのです。
 
 田沼政権は、銀貨に「8枚で小判1枚と交換できるよ」と書いちゃうことによって、銀貨を”現代の紙幣のようなもの”にしてしまうという”手品”を実現しました。
 
 これは、当時の政府首脳たちにとっては、無理やりひねりだしたような苦肉の策だったのでしょう。

 ただ、田沼政権は結果として、通貨史上きわめて重要なことを行ったのかもしれません。
 それは、次のようなことだと思います。
 
A.銀貨に金貨の単位をもたせることにより金・銀の並立を解消し、金本位制への統合をある程度進めた。

B.通貨供給量を調節する手段を手に入れた。

 Bについては、本来なら”景気対策”としておこなうべきですが、幕府は田沼時代以降、財政赤字の補填にこの手段を安易に用いるようになりました。
 赤字になるたびに改鋳を行い差益を得る、ということを繰り返したのですが、こんなムシのいいやりかたが成立するのは、ちょっと変ですね。

 事実、これは大きな禍根を残すことになったのです。
 
 
(3)田沼政権は100年後に幕府を崩壊させる導火線に火をつけた

 田沼政権の通貨政策が残した禍根。

 それは、次のように推移しました。
 
 幕府によりくり返し行われた改鋳は、先に書いたように差益による赤字補填が目的でした。
 その結果、銀貨の名目的価値がどんどん上がっていき、ついに金に対する銀のレートが外国の相場と比べて約3倍という高値になってしまったのです。
 
 しかしそれは、日本が鎖国をしていたからこそ可能だったと言えます。
 国内的には、貨幣の質ではなく名目によってバランスを保てたので、なんとかなっていたということです。
 
 ところが幕末の開港により、外国との貿易が生じたときに、問題が一気に顕在化してしまったのです。
 まさにツケがまわってきた、というやつです。
 
 日本に欧米の商人が入ってくるようになると、彼らは金銀レートの問題にいちはやく気づきました。日本と上海を往復して金銀の交換を繰り返せば、ボロ儲けができることに目をつけたのです。
 
 その結果、大量の金が日本から流出する、という事態がおこりました。
 あわてた幕府は、これを阻止するために金貨の質を大幅に落とす改鋳を行って、金銀のレートを国際基準(グローバルスタンダード!)に近づけようとしました。

 しかしこの措置は貨幣価値を暴落させることになり、かえって混乱を助長しました。ハイパー・インフレが発生したのです。
 
 ハイパー・インフレは、経済学の悪夢です。1920年代後半のドイツにこれが起こり、その結果、ヒトラー政権が誕生しました。経済の破局は、地球を血で洗う歴史にさえつながるのです。
 
 幕末の日本に起こった経済混乱は、ただでさえ困窮していた下級武士層の生活を直撃し、破綻させました。
 その不満の爆発は、倒幕運動・明治維新の大きな要因のひとつとなったと考えられます。



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コメント

 なんだか…今の日本を激しく連想してしまいます…

 江戸時代の経済政策は、悪くとれば小利口な官僚集団による小細工の積み重ねとも見えます。しかし、姑息な小細工という「塵」が、「塵も積もれば山」となって、けっこう先進的な通貨政策に行き着いてしまったんですね。実は同時期のヨーロッパでも、通貨のコントロールについてはてこずっていて、田沼政権の政策の方が安定的に機能していた面があるんです。
 このエントリは、江戸時代の観察を通して、日本人の長所と短所を考えるモデルケースを意図しています。
 読んでもらえて、うれしいです。

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