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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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17 ”正倉神火” と武士の誕生

 奈良時代の後半から平安時代初頭の東国に、正倉や官舎が原因不明の出火で焼失するという事件がたびたびおこりました。
 正倉というのは、穀物や財物をしまっておく公の倉庫のことです。
 
 朝廷はこれらの不審火を、はじめは神の祟りということで処理していました。

 古代においては、政治はマツリゴトといわれました。神を祭ったり供え物をするのは、当事にあっては政治の根幹だったのです。
 
 ただ、この”神火”事件には実はウラがありました。
 
 ”祭り”とは無関係な、いわば平安時代の”社会派ミステリー”ともいうべき真相がかくされていたのです。

 ところであなたは、平安時代というとどんなイメージを思い浮かべますか?
 おそらく、穏やかで平和的な時代を想像するのではないでしょうか。
 
 源氏物語、古今和歌集、平等院鳳凰堂などは、雅やかな貴族文化を今に伝えて素晴らしいのは確かです。
 しかし、それらは京の都の文化であって、平安時代の日本の姿を正しく伝えているとはいいきれないのです。
 
 この時代、文化はともかくとして、国政はかなり衰弱していました。とくに地方の荒廃はひどいものだったのです。
 
 ”正倉神火”は、その象徴ともいえる事件でした。
 
 
 はじめに書いたように、”神火”ははじめ、神の祟りと考えられました。
 朝廷が供え物をするべき由緒ある神社に、近年奉納をおこたっている。そのため、神が怒って落雷をおこして倉を焼いてしまった。
 そんな報告がまじめくさってなされた史料が実在するのです。
 
 ところが、このころの東国(関東地方)で、おなじような原因不明の出火があまりにひんぱんにおこったので、朝廷もこれはへんだと思いはじめました。焼けるのはいつも、貢納品などをしまっておく倉や官舎ばかりです。
 
 朝廷は調査を行ない、真相は役人(郡司など)による不正隠しのための放火であるとするようになりました。
 
 このことについての詳しい背景や実態は、少ない史料から知りようがないのですが、おうよそ想像するとつぎのようなことです。
 
 この時代の関東地方は、東北の蝦夷に対する征討(侵略)戦争の最前線でした。朝廷が軍事行動をおこすたびに、関東は物資や人員の供出をしいられ、疲弊していました。
 
 豪族たちは困窮する農民から税を取り立てることができず、かえって貧民の救済活動をおこなっていたことが記録にのこっています(エライじゃん)。
 しかし、徴税しなければ朝廷から責任を問われます。そこで、わざと倉庫に火をつけ、とりたてた貢納物が焼失してしまったと報告したのです。
 
 また、不正の内容は、こうした善意の行動だけとは限りません。
 
 たびかさなる戦役にともない、軍事物資の調達、移動がひんぱんにおこりました。これをつかさどる官人のなかに、悪心をいだいた者がいたのかもしれません。
 問題が発生し人々が苦しんでいるときに、どさくさまぎれの私欲にはしるヤカラがいることは、最近の”消えた年金問題”をめぐって関係者の不正がかなり発覚したことを見てもわかりますね。
 
 つまり、軍事物資を横領して、私腹をこやした者がいたと考えられるのです。
 こうした手合いが証拠隠滅をはかるために、正倉や官舎に放火したのでしょう。
 
 史料に確認できる”神火”事件は十数件にのぼりますが、ごく初期にあたる769年におこった武蔵国入間郡の事件をめぐって、”神の祟り”として事が処理された当時の正式な記録がのこっています。
 
 善意か悪意かはおくとして、正倉放火を”祟り”として報告するということを誰かが思いつき、”模倣犯”が続出したのです。
 
 「また、神火かよ」という感じになって、さすがの朝廷も真相に気づいたんですね。管理責任者である郡司を処罰するようになりました。
 
 すると今度は、郡司の地位をねらう者が現職を陥れるために放火する、というケースもおこるようになったのです。
 
 結局、つぎのような方針におちつきました。
 ”神火”については天災・人災を問わず国司と郡司に被害を弁済させる。ただし、それ以上の罪は追求しないことにしたのです。
 これによって、”神火”騒動はかげをひそめたといいます。
 
 朝廷の方策は、現実的といえば現実的です。
 
 管理者に弁償させることによって、不正のメリットはなくなったため、事件は沈静化したわけです。
 そして、弁償さえすれば不正そのものは不問にしてしまう、というところがミソ。
 事件の本質が当事の深刻な社会問題に根ざしていたため、そこにメスを入れることができなかったのではないでしょうか。
 
 深刻な社会問題とは、ひとつは先に書いた、東北戦争。
 
 大きな負担をしいられた関東地方が、ひどい疲弊におちいったことです。
 まずしい農民は、食うにこまって農村をはなれ、”群盗”に身を投じました。生産が不安定になり、治安は悪化しました。
 
 そして、この時代には重大な病巣がもうひとつありました。
 
 京の都では、藤原氏が全盛時代を築きつつあった時代です。
 主流からはずれた中・下級貴族は、都ではうだつがあがらないため地方に下って国司になることを望むようになりました。そうした手合いは、地方に着任するとひたすら民衆を搾取して、私腹をこやすことに狂奔しました。
 
 ところで、悪いことというのは、感染る(うつる)んです。
 
 私欲をみたす者を、政府(朝廷)はろくに取り締まらない。
 正直者だけがバカをみるのかと思えば、みんな自分の利益をむさぼることしか考えなくなります。不正をはたらいたってバレなければ、やったもん勝ちです。やらなければ、誰かに出し抜かれ損ということになります。
 
 関東地方の世相は、上と下の両方から乱れ、たちのわるいモラルハザードが進行しました。

 そうした時代の病理が、この関東の地に、おそらく世界史的にも類を見ない独特の”階級”を発生させました。
 
 ”武士”の誕生です。
 
 武士とはなにか。これは、専門的にはたいへん複雑な議論を要するのですが、思いきって簡単に言い切ってしまうと、以下の3つの動向がむすびついたものと考えられます。
 
(1)東北戦争にかりだされた民衆の中から、一種の”職業軍人”が発生してきます。彼らは”兵(つわもの)”と呼ばれました。有力農民が”兵”化し、村落規模の小領主に成長したケースもあるようです。

(2)伝統的な地方豪族の末裔・郡司層は、”兵”たちを組織して私兵集団を形成。これが、後の武士団の原形となります。

(3)このころ地方に赴任した国司のなかに、都には見切りをつけてそのまま地方に土着する者がありました。その中に、”軍事貴族”的な性格をおびた氏族がいくつかあり、代表的な一族が平氏でした。彼らは(2)の勢力を傘下におさめ、武士の棟梁に成長していきます。

 平安時代とは、およそ9・10・11・12世紀にあたります。
 10世紀以降、関東では3度にわたる大反乱がおこっています。
 10世紀には平将門、11世紀には平忠常が反乱の主人公でした。
 
 そして治承4(1180)年、3度目の反乱は源頼朝がおこしました。それは”武士革命”ともいうべき時代のうねりをつくり、鎌倉幕府を出現させたのです。


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