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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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16 織田信長の実像(その3、桶狭間2)

 ”14 織田信長の実像(その2・桶狭間1)では、通説にそった桶狭間の戦いを概観してみました。

 そのさい、この有名な合戦の実相についてのさまざまな考察のなかで、わたしがとくに興味をひかれた書物として、藤本正行『信長の戦争』をあげました。
 
 まず、この本の内容を簡単に紹介しておきます。ここでは、織田信長にかかわる7つの“戦争”がとりあげられています。
 桶狭間の合戦、美濃攻め、姉川合戦、長嶋一揆攻め、長篠合戦、石山本願寺攻め、本能寺の変の7つです。
 
 論ずるにあたり、藤本氏は2つの骨子を設定しています。

 ひとつは、史料として太田牛一の『信長公記』を重視する立場がとられていることです。

 太田牛一は、織田信長の家臣だった人物です。いくつかの戦場を実際に経験し、その後はおもに官僚として織田・豊臣家に仕えました。
 織田家の家臣あがりですから、彼の筆にはある程度、信長についての美化や潤色が含まれている可能性はあります。そういうところを多少、割引きしてとらえるとしても、信長の伝記のほとんどが江戸時代以降に書かれたものであることを考えると、同時代人の記録としての価値は高いと見るわけです。

 2つめの骨子は、信長の戦さについて分析するための参考として、太平洋戦争に事例をもとめている点です。

 これらの視点に立ち、藤本氏は織田信長にまつわるストーリィの多くは虚構であり、後世につくられたものだと主張します。桶狭間合戦もそうです。

 藤本氏の見解では、今川義元の尾張侵攻は“上洛”をめざしたものではなく、桶狭間合戦は信長の“奇襲攻撃”ではなかったことになります。

 それでは、『信長の戦争』が桶狭間合戦の実像をどのように描いているのか、見ていきたいと思います。

(1)今川義元の尾張攻めは“上洛”が目的ではなかった

 第一のポイントです。
 では、なんだったかというと、戦国時代の日本では頻繁に起こっていた、領土拡張のための平凡な戦さだったとしています。今川義元の戦死は、その中で起こったハプニングです。

 紛争の起因は、次のようなものです。
かねて尾張領内に調略の手をのばしていた今川家は、織田方の拠点である鳴海城・大高城・沓掛城の奪取に成功します。
 それに対し、信長は鳴海・大高両城の周囲に5箇所の砦を築き、敵に寝返った両城の封鎖を試みました。
 そこで、今川義元は大軍を率いて出陣し、この両城を救援し、敵の領内に築いた拠点の確保をはかったというわけです。

 『信長公記』には、今川義元が上洛をめざした、とは書かれていません。そればかりか、尾張攻略さえ、当面の目的としては視野には入っていなかったと藤本氏は見ます。

 尾張と駿河のあいだには、三河があります。このころ、駿河・今川家は三河を支配下に入れていますが、政情は不安定。しかも、近隣の強国である武田・北条とは同盟を結んでいるとはいえ信用はできません。
そんな時期に、今川義元が長期間にわたり駿河を留守にすることができるかどうか?
たしかに、疑問に思えてきますね。

今川義元の本当の目的は、敵領内の味方、大高・鳴海両城の救援。これを封鎖する5砦の排除のみ。
 しかし、敵地での戦闘が泥沼化し、長引いてしまうと本拠地のほうが危うくなるという弱みが今川義元にはあったのです。だからこそ、巨大な戦力を動員しました。大軍で威圧して信長に籠城をうながし、大高・鳴海両城の救援という目的をできるだけさっさとすませてしまいたかったのです。

 今川方のそうした弱みを読んだ信長は、強襲を決断しました。

 敵は大軍とはいえ、遠く本国を離れて補給ものびきっており、しかも本音では決戦を避けたがっているはず。決戦を避けたいがゆえの、威嚇のための大軍であることを信長は見透かしたのではないでしょうか。地の利を活かした攪乱戦術を展開すれば、勝機ありとふんだのです。

 このあたりの信長と義元の読み合いは、信長がまさったというよりは、二人の性格の違いによる気がします。

 今川義元は、大高・鳴海城の封鎖解除に成功すれば、すみやかに駿河に引き上げるつもりです。信長も、それは読んでいると彼は推測します。
 だったら、10倍近い敵に対して無謀な決戦など挑まないと判断するのが、常識でしょう。
 地の利を活かして善戦できるとしても、やはりどう考えてもリスクが大きすぎます。

 信長の桶狭間強襲が成功したことを知っているわたしたちは、つい後知恵で、信長の決断が正解だったように思いがちです。

 しかし、永禄3年の時点での当事者たちの視点を冷静に考えると、織田信長のとるべき最善手は、実は“籠城策”だったのではないでしょうか?

 清洲城にこもり、今川軍のなすがままにまかせるのは、つらい辛抱です。さらに、この時点で今川がいったん引き上げたとしても、尾張領内に拠点を確保した今川はしだいに尾張を侵食し、信長の滅亡か屈服をねらってくるのは確実です。だまっていては、いずれ信長はジリ貧におちいります。

 そうわかっていても、それが現時点での今川と織田の実力差ゆえと見切り、じっと辛抱して反撃の機会をさぐるのは、けして間違った判断ではないと思うのです。

 今川義元は、この戦いをそういうゲームととらえ、信長が智将であれば自重策をとり、愚将であればあるいは決戦にでてくるかもしれない、というふうに考えていたのではないでしょうか。

 籠城するなら読みの深い手ごわい敵、決戦に出てくるなら無謀な行動に走るたやすい敵。
 そういう判断から、義元は決戦となる可能性もなくはないと考慮はしながら、その展開を軽視していたのではないか。このあたりの心理的なあやは、藤本氏の著作からは離れたわたしの想像(妄想?)です。

 野球でいえば、誰もが送りバントを予想する場面で送りバントさせてきっちり点につなげる監督と、ヒットエンドランを指示する監督の違い。そんなことを考えてしまいす。
 どちらが正解ともいえませんが、それを勝ちに結びつけるのは、どちらもするどい勝負勘が必要です。

 さて、『信長の戦争』にもどりましょう。

(2)桶狭間合戦は奇襲ではなかった

 第ニのポイントです。
 
 まず、桶狭間という地名ですが、義元の本陣がどこに置かれたのか、実は必ずしも明確ではないのです。おおまかにはわかりますが、山だったのか谷だったのかはっきりしません。というのは、『信長公記』には、“おけはざま山”という記述が見えるのです。
 このあたりの記述から戦闘開始まで、『信長公記』は両軍の布陣や進軍の経路、方向など丹念に記述しています。その内容を詳しく検討しながら藤本氏は、信長の桶狭間攻撃は、迂回しての奇襲ではなく、正面からの強襲だったと論じています。
 長くなるので、そのあたりの詳しい内容は省略します。興味がある方は、『信長の戦争』を読んでみてください。

 ここでは、わたしが特に印象にのこった藤本氏の指摘を、ひとつ紹介しておきます。

 太平洋戦争末期。
 戦艦大和の出撃にさいし、司令部が迂回コースをとることを命じたのに対する、艦隊側の不満が以下の記述だそうです。

 「かかる小細工の余地なく、情勢逼迫せるは明かなり。むしろ最短距離を直進するの直截なるにしかず」

 なるほど! この忙しい時に迂回・奇襲なんて悠長なこと命令するなよ、と言ってますね。こんな時は、小細工するより最短距離を直進したほうがいいんだよ。

 現場の言葉だ。説得力を感じます。

 桶狭間をめざす信長クン。その様子を想像してみます。

 藤本氏によると、この時、信長が情報力を発揮して今川義元の所在を察知したという話自体、後世の作り話くさいのだそうです。

 仮に、義元、桶狭間にあり、と信長がつかんだとしましょう。
 よし、迂回して奇襲攻撃だ!
 遠回りして桶狭間についてみたら、義元はすでに移動してもぬけの殻。
 そんなことになりかねないですね。

 敵将の所在がわかったんなら、一目散にそこをつけ。

 はたして、信長は今川軍に正面攻撃をかけたのだと、藤本氏は分析します。そして、周辺の地形を考えると、今川方から織田軍の行動は丸見えだったと考えられるらしいのです!

 じゃあ、なんで織田軍は圧倒的に優勢な今川軍に勝てたの?

 それは、ある軍事目的にむかって動いている大軍というものは、予期せぬ状況の変化に即座に対応することが難しいからだと、藤本氏は説明しています。
 ナルホド。巨大な草食恐竜のように、図体がでかすぎて、反射神経がにぶいんでしょうね。

 ここらへんの見解を踏まえて、『信長公記』に書かれた戦闘の経過を、かみくだいてトレースしてみましょう。

 清洲城を出た信長は、前線の善照寺砦に入り、勢力を集結。ここで先走った織田方の小部隊が今川方につっかけて、殲滅されます。
 義元喜び、
「義元が矛先には天魔鬼神も忍べからず。心地はよし」
 緩々として謡をうたわせ、陣をすえます。
 小競り合いの開始を見た信長は、中嶋砦に移動。そこから、さらに敵に接近。
 信長のこの行動を、家来たちが無謀だと止めます。それに対して、信長は言います。

「あの敵勢は、戦い続けて疲れている。こちらは新手だ。大軍を前にして怖れるな。運は天にある、という言葉を知らないか? 敵が反撃してきたら、引け。下がるようなら喰らいつけ、云々」

 信長の命じているのは、ボクシングでいうヒット・アンド・アウェイ戦法ですね。

 藤本氏の分析では、この時信長が遭遇した今川勢が疲れているというのは勘違いで、実は新手だったそうです。
 そこに突っ込んでしまったわけですが、今川勢は崩れます。

 先に書いたように、予想外の強襲に対応できなかった、ということなのでしょう。

 押せば引け、引けば喰いつけ、という信長の命令もいいですね。

 信長が父の死により家督を継いだ10代のころ、尾張はまだまとまっておらず、彼は苦しい戦さを何度も経験しています。最初は、散々な敗北を喫したりしているようです。

 修羅場をくぐった信長は、ぎりぎりの生死の境においての“勝負勘”を身につけていたのでしょう。

 無謀とも思える桶狭間の強襲は、
「俺が陣頭指揮をとれば勝てる」
 という自信に裏打ちされていたのではないでしょうか?

 彼の勝因は、机上の空論で、コレコレこうすれば上手いこと勝てる、というようなものではなかったのだと思います。


 信長は戦さの名人ではないかもしれません。しかし、プロ中のプロという感じはします。
 小勢をみずから率いて戦場を駆けまわる。そんな戦いを好む男というのが、わたしの信長にいだくイメージです。

 俺なら、死の瀬戸際で機敏に動ける。
 その俺が指揮をとれば、勝てる。
 押せば引け。引けば喰いつけ。

 乱戦は、織田方優勢に推移しました。

 そして。

 某国営放送の歴史番組で使われるフレーズをパクらせていただくと、

 今日の”その時“がやってきます。

 難を逃れて戦場を撤退しようとする今川義元の本陣を、信長の視線がとらえたのです。

「旗本は是なり。是へ懸れと御下知あり」

 まさに歴史の大転換点となった一瞬を、『信長公記』はあっさりと記述しています。


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◎信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学 (講談社学術文庫) 藤本正行

 『信長公記』は、織田信長と同時代に書かれた記述です。この史料にもとづき、後世つくられた戦国合戦記の虚構を検証。とくに、桶狭間合戦についての考察は、信長に興味のある方には必読です。

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