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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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13 織田信長の実像(その1・入門編)

 織田信長という人物の人となりを知るうえで、欠かすことのできない有名な史料があります。
 天正4(1576)年頃、信長が秀吉の妻に宛ててかいた手紙です。
 
 このころの織田家は、多くの難敵との長年にわたる苦しい戦にもようやくめどがつき、全盛期をむかえようとしていました。
 先立つ天正元年には、将軍、足利義昭を追放し、抗争をくりひろげてきた浅井・朝倉両家を滅亡に追い込んでいます。また天正3年には、有名な長篠の戦いで武田勝頼の軍勢を一蹴。
 石山本願寺、上杉、毛利といったやっかいな敵がいくつか残っているとはいえ、織田家の優勢はもう動かない状況になっていました。
 この時期に信長は、安土城の築城に着手したのです。
 
 秀吉の妻・おねへの手紙は、そんなころに書かれたものです。  
 当時の(羽柴)秀吉は長浜城主で、織田家における出世頭の地位を明智光秀と争っていました。いささか慢心したのでしょうか、側室の問題で、苦労をともにしてきた正室のおねとケンカしてしまったようです。
 
 おねはなんと安土におもむき、信長に直訴しました。
 信長は仲裁にのりだします。
 
 手紙の書き出しは、こうです。
 
①「おほせのことく、こんとハこのちへはしめてこし、けさん(見参)ニいり、しうちやく(祝着)に候、ことにみやけ(土産)色々うつくしさ、中々めにもあまり、ふてにもつくしかたく候、しうき(祝儀)ハかりに、このはうよりもなにやらんと思ひ候へハ、そのはうより見事なる物もたせ候あひた、へち(別)に心さしなくのまゝ、まつまつこのたひハとゝめまいらせ候、かさねてまいりのときそれにしたかふへく候」

 初めて安土に来てくれて祝着であった。ことに土産物のすばらしさは、筆にもつくしがたい。こちらからも何か返礼をと思ったが、そちらの持参したものがあまりに見事だったから、このたびはやめておくことにした。つぎに来たときにでも、さしあげようと思う。
 
 と、いうわけです。
 つづいて、
 
②「なかんつく、それのみめふり、かたちまて、いつそやみまいらせ候折ふしよれハ、十の物廿ほともみあけ候」

 その方の容色も、いつぞや来られたときよりも、十のものが二十ほどにも美しくなっている。
 
 と、さらに持ち上げています。
 
③「藤きちらう(藤吉郎)れんれんふそくのむね申しのよし、こん五たうたん(言語道断)くせ事候か、いつかたをあひたつね候とも、それさまほとのハ、又二たひかのはげねすみあひもとめかたき(求め難き)あひた」

 藤吉郎こと羽柴秀吉を”はげねずみ”とこきおろしています。ここは、戦国史ファンには有名なくだり。
 そなたは前にもまして美しくなっているのに、藤吉朗が不足をいうのは言語道断である。どこをたずねても、あんなハゲネズミがそなたほどの妻を得ることは二度とできないのに。
 
④「これよりいこ(以後)ハ、みもちをようくわい(陽快)になし、いかにもかみさま(上様)なりにおもおもしく、りんき(悋気)なとにたち入り候てハ、しかるへからす候、たたし、をんな(女)のやく(役)にて候あひた、申ものゝ申さぬなりにもてなし、しかるへく候」

 (であるからして)これからは気持ちを陽気にし、奥方らしく重々しくふるまい、やきもちなど妬くのはよろしくない。女の役割をよくわきまえ、言いたいこともあろうが、そこをこらえ夫をささえるようにしなさい。
 
⑤「なをふんてい(文体)に、はしハ(羽柴)にはいけん(拝見)こひねかふものなり、又々かしく」

 なお、この手紙を羽柴にも見せてやるように。
 
⑥「藤きちろう をんなとも のふ」

 最後の「のふ」というのは、信長の署名です。
「ノブちゃんで~す」とおどけながら、”天下布武”の朱印をおしています。

 なんともはや、という感じの手紙ですね。
 この手紙、織田信長の意外な優しさを示すもの、というニュアンスで、よく引き合いに出されます。
 
 でも、そうでしょうか?
 
 この手紙の本来の目的は、④の部分なのはあきらかでしょう。
 武家の妻は、やきもちなどで騒ぎたて、夫の仕事をさまたげてはならない。そういっているわけです。
 しかし、それを頭ごなしに言ってはカドがたつし、おだやかにさとすにしても、まじめくさって言うとシコリがのこります。
 そこで、まずおだててイイ気分にさせ、冗談めかしてイヤな後味をのこさないように気をつかったのです。
 ①の書き出しの、土産物云々。このあたりの文章のソツのなさにも注目。
 
 信長って、意外と常識人(笑)。
 
 この手紙に見られる気配りの妙は、人間関係のテクニックにぞくする問題ですから、信長が優しい人間なのかどうかは、ここからはわかりません。
 
 優しいかどうかはわかりませんが、じつにマメですね。
 
 この手紙、かりに現代の企業人が部下にあてた手紙だと考えたらどうでしょう。
 
 わたしの印象では、上司にしても大企業の経営者や重役が書いたものという感じはしません。中間管理職くらいを思い浮かべてしまうのですが、どうでしょう? (ベンチャー企業の若い経営者なら、いろいろな人がいるかもしれませんが)
 
 これからオイオイ例をあげて指摘していくつもりですが、信長という武将は戦でもどちらかというと、小勢を率いて自ら陣頭指揮をとる戦い方がいちばん性に合っていたのではないかと考えています。
 
 現場の好きな仕事師、それもプロ中のプロ。キレものの課長さん。のべつ忙しく動きまわり、何でも自分でやってしまいたがるタイプ。けして酷薄な人間ではないのですが、部下が自分の動き方についてこれないとイライラしてしまう。
 とりあえず、そんな感じがわたしの信長のイメージです。


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