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あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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12 濃姫の謎と歴史を創る愉しみについて

 質問サイト、「教えて!goo」で、摩訶不思議な人を見かけました。

 いわく、倉庫(ご実家の?)から、明智光秀の書状が出てきた、と。
 上杉景勝にあてたもので、徳川家康と明智光秀が「本能寺の変」にさいして共謀していた、というような内容だそうです。で、この資料をどこへ持っていけばいいか、と質問しています。

 回答は、”つるしあげ”みたいな感じになっていました。

 この質問者の同じような質問は他にもいくつか投稿されており(天草四郎は豊臣秀頼の子だとか)、サイト側は鷹揚に黙認している様子。

 なら、これはこれでいいんじゃない?
 そう、わたしなどは思ってしまいました。

 わたしの意見。質問の内容が嘘八百であることは、とやかくいいません。

 ただ、この人の一番よろしくないところは、ウソの内容が幼稚で陳腐、ちっとも面白くないところです。
 「本能寺」の家康陰謀説、秀吉陰謀説、光秀=天海説、昔から山ほど言われてきました。
 天草四郎の件も、たしか日本テレビの『時空警察』だったと思いますが、そんなような話がありましたね。

 どうせウソをつくのなら、もっと緻密でエレガントなやつをお願いします。

 ネットで読んでる分にはタダですからいいようなものの、あの内容では木戸銭を払ってまで観る気にはなりません。

 そこで。

 以下は、もう少しモットモラシクするための、わたしからの提案です。
 まず、古文書を読解できるほどの人が、見つけた史料をどこへもっていくか質問しているのが、そもそもヘン。

 なので、文書を自分で読んではいけません。
 知人がカクカクの史料を見つけ、自分には読めないんだけど、シカジカの内容が書いてあるらしい、というようにヒネリましょう。

 次に、内容について。
 「本能寺の変」の黒幕ですが、家康ではあたりまえすぎてツマラナイでしょう?
 もうちょっと、意外性のある人物にしてみましょう。

 たとえば、濃姫はどう?

 言うまでもなく、斉藤道三の娘にして、織田信長の正室さんですね。
 この女性は婚礼にまつわるいくつかのエピソードが有名ですが、その後、史料にまったく名前がでてきません。
 そこで、早く死んだか、離縁されたのではと考えられてきました。
 しかし、最近では信長の本妻の地位をたもちながら「本能寺の変」以後まで存命していたのでは、という説がわりと有力です。

 明智光秀と濃姫は、ともに美濃の名家・明智にゆかりの人物で(従兄妹だったというのは俗説のようですが)、もとより深いつながりが想定できます。

 濃姫には、近年注目されている次のようなエピソードがあります。

 骨董マニアの信長が美濃を攻略した後、斉藤義龍の後家が所有していた壺を欲しがりました。
 斉藤義龍は美濃の国主だった人物で、売り出し中の信長は、なかなか義龍率いる美濃を落とせませんでした。
 しかし、義龍は若くして病没。息子の龍興の代になって、やっと信長は美濃制圧に成功したのです。

 美濃は信長支配下にはいりました。その信長がつよく所望したにもかかわらず、義龍後家なる女性は、壺を差し出すのをこばみました。戦乱の中で失ったと言い訳しますが、信長は信用せず、しつこく要求をくりかえしました。
 ついに義龍後家は自害すると言い出します。

 ここに”信長本妻”なる女性が登場。
 斉藤家の旧臣たちをまきこんで共に命をたつと騒ぎ出し、仲裁する人物があらわれて、やっと信長もあきらめました。

 織田信長にまつわるエピソードは江戸時代の軍記物に由来するものが多いのですが、この話は同時代の貴族・山科言継の日記に書かれていて信憑性がたかいのです。

 さて、問題はここに見える「信長本妻」という女性の正体です。
 はっきり言って、誰のことなのか必ずしも明確ではないのです。ただ、美濃のいざこざに命がけの肩入れをした「信長本妻」と呼ばれる女性はだれかと考えると、濃姫である可能性を想像することはゆるされるでしょう(司馬遼太郎がよく使った言いまわし)。

 先にも書いたように、父・斉藤道三の死後、濃姫の存在をはっきりと示す史料は残されていません。
 正室でありながら、不思議に存在感のうすい女性です。
 そこから、道三の死後まもなく、病死したか殺害されたか、離縁されたかという諸説が生まれました。

 道三の死によって、その娘の濃姫は信長にとって利用価値がなくなったのではないか。
 ひとつには、そんな着想もあったのではないかと思います。

 しかし、わたしは思います。
 利用価値がなくなったというのは、本当にそうなのでしょうか?

 織田信長が斉藤道三の娘を正妻としているということは、道三の死後、美濃の正当な継承権を主張できるということでもあります。

 また、信長が美濃を攻略した後はどうでしょう。

 信長は居城を尾張から美濃の岐阜に移しました。有名な岐阜城です。
 これは、考えてみれば大変なことです。
 だって、占領地を本拠地にしたわけですよ。

 現代のイラク戦争を見てください。圧倒的な軍事力があれば戦争には簡単に勝てることをアメリカは証明しました。しかし、圧倒的な軍事力をもってしても占領行政は容易ではないことも、アメリカは証明してくれたのです。

 戦争に勝つことよりも、その後の占領の方がはるかに難しいことを、しばしば人は忘れているのです。
 
 にもかかわらず信長は、占領地に居城を置いて、その後の飛躍の足がかりとしました。
 なぜ、そんなことが可能だったのでしょう。

 斉藤道三の娘を正室にしていたからではないでしょうか?

 言継卿の日記にみられるエピソードは、そんな可能性を考えさせてくれます。

 そして。

 つぎのような物語はいかが。

「光のあたることの少ない歴史の陰から、ひそやかに信長を支えたつづけた正室”濃姫”。
 しかし、その後、上洛をはたし天下を睥睨するようになった信長は、もう美濃衆だけの信長ではなかった。
 将軍を追放し比叡山を焼き、天皇家とも対立を深める信長に、濃姫は危惧をいだくようになる。信長の暴走をとめるべく、彼女は美濃衆のもうひとりの中心人物・明智光秀の耳に、ある計略をささやく・・・・・」

 なお、友人が倉庫で”発見”する書簡か何かの文中では、「濃姫」「帰蝶」の名は使ってはいけません。どちらも後世の創作の可能性が高いからです。
 「安土殿」「信長御台」というふうにすれば、よりもっともらしくなります。

 ちょっとワルノリしすぎですか(笑)。



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コメント

濃姫

はじめまして。濃姫の消息の記事とても面白かったです。昔、山岡荘一の「織田信長」を読んだことがあるのですが、その中では、濃姫さまけっこう登場されていたのに、最近は、生駒殿?の件が史実として表面化した?たためか、小説のほうでも影がうすくなってしまいましたよね。それで、いったいどんな生涯だったんだろう?と案じておりました。「信長本妻」ってきっと濃姫さまなんでしょうね。この記事とても楽しかったです。

すみません。山岡荘八でした(トホホ!)

Starsapphireさん。はじめまして。
コメントありがとうございます。
濃姫&生駒殿に関しては、Yahoo!掲示板に実におもしろいトピック(激論)があるので、よかったら読んでみてください。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835208&tid=c0bbfabc0bbra1a2bfa5edbfaed9a4knxa47a4fa4a4a4dea49a1a3&sid=1835208&action=m&mid=7818

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