FC2ブログ

ブログ内検索


プロフィール

あまくさ

Author:あまくさ


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉~後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


カテゴリー


最近の記事


フリーエリア



デル株式会社


PCDEPOT WEB本店


にほんブログ村へ にほんブログ村 歴史ブログへ
人気Blogランキングへ

記事を気に入っていただけたら、ワンクリックよろしくお願いします




最近のコメント


リンク


RSSフィード


FC2カウンター


最近のトラックバック


ブロとも申請フォーム

11 青岳尼と房総里見氏の栄華

 青岳尼は、戦国時代の東国に生きた女性です。
 鎌倉の名刹・太平寺の住持をつとめた尼僧ですが、弘治2年(1556年)、房総の里見義弘が鎌倉に侵入し、この女性を略奪して正室にむかえるという劇的な事件がおこります。

 里見義弘の父は、房総里見氏の最盛期を築いた戦国武将・里見義堯です。
 一方、青岳尼の父は、小弓公方・足利義明。

 一般になじみのうすい名前ばかりですね。
 足利義明というのは、織田信長との関わりで有名な室町幕府最後の将軍・足利義昭とまぎらわしい姓名ですが、まったくの別人です。
 室町時代には、足利氏の傍流が”鎌倉公方”として関東を支配するという役割分担がありました。しかし、関東管領・上杉氏、そして小田原北条氏におされて、戦国期には衰退します。

 その流れをくむ義明は、東関東の諸勢力を糾合し、足利氏による関東支配の再来をめざします。これに呼応して傘下に加わった最有力勢力が、房総の里見義堯でした。
 ですから義堯の子・義弘と青岳尼は、もともと縁組の約束が交わされていた可能性が考えられるのです。
 今の茨城県・千葉県を主な範囲とする東関東は興味深い地域です。
 古くは、平将門。
 彼もこの地域を拠点として活躍し、関東の独立を夢見ました。
 この将門からおよそ1世紀おくれて、平忠常という武士がやはり房総の地を舞台に大乱を起こし、その後の東国史に大きな影響をのこしています。

 そして、源頼朝が出現します。
 頼朝は伊豆で挙兵、石橋山の敗走後、房総半島に渡りました。父・源義朝がこの地に築いていた強い影響力を背景に、頼朝は大軍の結集に成功します。そして、鎌倉幕府をつくりあげたのです。

 一書によると足利義明はかなりの人物だったとも書かれています。歴史にifはないと言われますが、足利義明が関東を制圧し、第2の頼朝になるという”もうひとつの歴史”もあり得たかもしれないのです。

 現実の歴史では、房総・東関東に武威をはった足利義明は、西から膨張する小田原北条氏の勢力と激突します。
 そして天文7年(1538年)、世にいう国府台合戦において足利・里見連合軍は北条氏綱の軍勢に敗北、義明はこのとき戦死します。
 里見氏と青岳尼の運命が急転した瞬間です。
 
 参考までに、1538年という年がどういう時期だったのか見ておきましょう。

 まず、1534年に織田信長が、1537年に豊臣秀吉が生まれています。
 1536年には花倉の乱に勝利した今川義元が、家督をついでいます。
 1541年、甲斐の武田晴信が父・信虎を追放。後の武田信玄の誕生です。
 1542年、美濃の斉藤道三が土岐家を追放して国主となっています。同年、徳川家康誕生。

 波乱の時代の幕開けといえるでしょう。

 武田信玄(晴信)、今川義元という2大スターが、この時期にデビュー戦をかざっています。
 そして、戦国時代の壮大なフィナーレを演じる信長・秀吉・家康が、あいついで生まれたころ。その先駆者とも言える怪物・斉藤道三が、歴史に登場したころでもあります。

 小田原北条氏はこの時期以降、関東制覇を進め、武田信玄・上杉謙信・今川義元と抗争を繰り広げる戦国屈指の巨大大名に成長していきます。

 そんな時代に父を喪った青岳尼は、くわしい事情はわかりませんが、ほどなく鎌倉尼五山第1位・太平寺の住職として、史料にその名が見え隠れします。
 太平寺は足利氏の女性が住職を務める先例があったようで、足利義明の娘がここに入る必然性はあります。
 ただ、当時の鎌倉は北条氏の勢力下におかれていました。
 青岳尼にとっては、父を敗死に追いやった北条の支配する寺です。彼女がその住持となったことの背景に、どのようないきさつがあったのでしょうか。

 青岳尼について残された記録は、ごく少ないのです。

 容姿や人となりはおろか、本当の名前さえわかりません(もっとも古代・中世の女性の場合、もっと著名な人物でも本名は不明なことが多いのですが)。
 わかっているのは、足利義明の娘だったこと。太平寺の住職を務めていたこと。

 そして、弘治2年の事件です。

 水軍をひきいて三浦半島に上陸した里見義弘が、北上して鎌倉を急襲。青岳尼を本拠の房総に連れ去ってしまったのです。
 この時、義弘は寺の本尊だった「聖観音菩薩立像」も、いっしょに持ち去られたといわれます。
 この所業に北条家当主・氏綱が激怒。太平寺は廃絶に追い込まれます。観音菩薩像は交渉のすえ鎌倉にもどされ、それからはもうひとつの尼寺として有名な東慶寺におかれました(今もあります)。
 しかし、青岳尼は帰ることはなく、還俗して義弘の正室になりました。その後の半生もよくわかりません。早死にしたとも、比較的ながく生きたともいわれます。
 ただ、ある史料には、里見義弘と仲むつまじく暮らしたと書かれています。


アーカイブ(過去記事一覧)



姫氏の国の物語・トップページへ



 書籍案内 




 三山 進 『太平寺滅亡 -鎌倉尼五山秘話』 有隣新書

 は、かなり地味な本で、娯楽性はありませんが、青岳尼について知るには決定版といえる内容です。ただ、絶版になっているようで、検索してみましたがアマゾンや楽天で書名だけは出てくるものの入手は難しそうな感じでした。興味のある方は探してみてください。


 里見氏についての入門書としては、館山市立博物館刊行の

『さとみ物語 戦国の房総に君臨した里見氏の歴史』

 があります。書籍としても購入可能ですが、テキスト版がwebで公開されているので紹介しておきます。

http://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kanzenban.html

コメント

コメントの投稿



管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://tokai-japanese-history.com/tb.php/16-689174f2

 | HOME |  ▲ page top